Catholic Church of Yamato-Koriyama

浦上四番崩れ
流配記念碑

信仰を守り抜いたキリシタンたちの記憶

明治二年(1869)— 流配碑建立100周年 2026
スクロール

流配碑とは

カトリック大和郡山教会の境内には、一枚の石碑が静かに建っています。 「浦上四番崩れ流配記念碑」——明治維新直後、信仰のゆえに故郷長崎を離れ、 はるか大和郡山の地に流配されたキリシタンたちを慰霊するために建てられた碑です。

明治二年(1869)末、長崎浦上村の潜伏キリシタン三千四百十六名が明治新政府によって 全国二十数藩に分散流配されました。このうち八十六名が大和郡山藩に送られ、 五年余の過酷な日々を過ごしました。

碑は大正十五年(1926)に建てられ、昭和四十四年(1969)に現在地—— 教会の境内——へと移されました。2026年は碑の建立から百年の節目の年です。

3,416 全国流配者総数(名)
86 大和郡山流配者(名)
5年余 流配期間
1926 碑建立年(大正15年)
浦上四番崩れ流配記念碑

浦上四番崩れ——歴史の背景

三百年におよぶ禁教時代を経て、明治の夜明けとともに断行された最後にして最大の キリシタン迫害——浦上四番崩れ——の歴史的背景を振り返ります。

慶長元年(1596)
禁教令と迫害の始まり
豊臣秀吉によるキリシタン禁制に端を発し、江戸幕府は慶長元年以来 三百年にわたって「邪宗門信奉」の故をもって間断なき弾圧を行い、 無数の信者の命が奪われました。 長崎浦上村では七代にわたって潜伏を続けながら信仰が受け継がれていきました。
慶応4年・明治元年(1868) 浦上三番崩れ
「信徒発見」と新たな弾圧
慶応元年(1865)、大浦天主堂でプチジャン神父に潜伏キリシタンが名乗り出た 「信徒発見」の直後、新政府は禁教令をそのまま引き継ぎ、浦上村の信者を一斉に検挙。 「三番崩れ」として戸主一一四名を各地へ追放しました。
明治2年(1869)末 浦上四番崩れ
三千四百十六名の総流配
明治新政府は浦上村の全信徒を殲滅しようとして、 村民三千四百十六名を悉く捕縛し、家族を分散させて全国二十余藩に流罪に処しました。 これが「浦上四番崩れ」です。 名古屋より西の二十以上の藩に分散配流され、各地で厳しい改宗強要と苦役が待ち受けていました。
明治2年(1869)12月
大和郡山へ——八十六名の流配
郡山藩に割り当てられた流配者は、戸主十名と婦女子七十六名の計八十六名。 戸主グループは明治二年十二月五日に大波止から乗船し、十二日に大阪着、 その日のうちに郡山へ。家族グループは時津・彼杵を経て面高村畑島から乗船し、 十二月二十七日に郡山の雲幻寺に収容されました。
明治2〜6年(1869〜1873)
郡山での五年余の苦難
郡山藩主・柳沢保申の温情による比較的人道的な扱いも束の間、 明治四年以降は改宗強要・苦役・食糧制限が激しくなりました。 天川銅山での過酷な採掘労働や奈良大仏周辺での紙漉き労働を強いられ、 九名が殉教死しました。それでも一人として棄教しませんでした。
明治6年(1873)3〜4月
解放——浦上への帰還
欧米列強の抗議を受けた明治政府は三月、「キリシタン放還令」を発布。 四月、郡山の流配者たちは神戸港から船で故郷浦上へと帰還しました。 五年余の異郷での苦難は、ついに終わりを告げました。
大正15年(1926)7月
流配碑の建立
ビリオン神父(Père Aimé Villion, M.E.P.)によって雲幻禅寺(現・良玄禅寺)の 境内に石碑が建てられたとされています。高さ約一・五メートル、 幅約一メートルの自然石に殉教した六名の名が刻まれています。
昭和44年(1969)11月3日
碑の移設——教会境内へ
流配百年祭を機に、浦上切支丹大和郡山市流配者遺族会により碑文が刻まれた 流配記念碑が建立され、元の石碑ともどもカトリック大和郡山教会の境内へ移設されました。 以来、毎年十一月の死者の日にミサが捧げられています。
平成31年(2019)
流配百五十周年記念式典
カトリック京都教区の主導で全国から信者が集まり、教会で大規模な慰霊式典が行われました。 遠く韓国からも二十名を超える巡礼者が訪れるなど、国際的な関心も高まっています。
2026年
流配碑建立百年
大正十五年(1926)に建てられた流配碑は、2026年に建立百周年を迎えます。 殉教した先人たちへの祈りと、信教の自由への感謝を新たにする節目の年です。

大和郡山での流配生活

厳冬の中、乳飲み子を背負い長崎から遠路はるばる連行された信者たちは、 郡山の地でどのような日々を過ごしたのでしょうか。

市内寄宿先配置図

▲ 大和郡山市内の流配者寄宿先配置図

  • 収容場所:茶町・鍛冶町 雲幻禅寺
    到着後、住職夫妻の温かい歓迎のもと本堂に収容。当初は近くの宿から食事が運ばれ、 炬燵や風呂も与えられました。
  • 改心説諭の日々
    連日、役人が訪れて改心(棄教)を迫りました。十字架・聖画像の没収、 家宅捜索が繰り返されましたが、誰一人として棄教しませんでした。
  • 明治4年(1871)以降の苦難激化
    政府の視察後、食事は粥のみに制限され、真夏の炎天下で重労働を強制されました。
  • 天川銅山(天川村)での採掘労働
    山深い吉野郡天川村の銅山に送られ、食糧不足と極寒の中での鉱山採掘を強いられました。 老人や病人も例外ではありませんでした。
  • 奈良大仏殿周辺での紙漉き労働
    十二歳から二十歳の若者は親元から引き離され、大仏殿近くで紙製品の製作を 強制されました。
天川銅山作業跡

▲ 奈良・天川村の銅山跡(三俣)。流配者が強制労働を強いられた場所。

流配の行程

【戸主グループ】
明治2年12月5日 大波止出港 →
12月12日 大阪着(郡山藩に引渡し)→
12月12〜13日 大和郡山・雲幻寺着

【家族グループ】
明治2年12月6日 浦上発(時津・彼杵経由)→
畑島(面高村)で乗船 →
12月26日 大阪天保山着 →
12月27日 大和郡山・雲幻寺着
※暗峠(くらがり峠)を越えて大和へ

暗峠

▲ 暗峠(くらがり峠)——流配者が大阪から大和へ越えた峠

流配碑について

教会の境内に静かに建つこの石碑は、浦上から大和郡山に流配されたキリシタンたちの 信仰と受難を後世に伝えるために建てられました。 自然石でできた碑には、郡山の地で命を落とした殉教者の名が刻まれています。

もとは雲幻禅寺(現・良玄禅寺)の境内の一角に置かれていましたが、 昭和三十九年(1964)頃から奈良・郡山の信者たちがここで慰霊ミサを捧げるようになり、 昭和四十四年(1969)十一月三日、流配百年祭を機にカトリック大和郡山教会境内へ移設されました。

石碑の建立 大正15年(1926)7月
建立者 ビリオン神父(Père Aimé Villion, M.E.P.)と伝えられる
元の設置場所 茶町 雲幻禅寺(現・良玄禅寺)境内
現在地移設 昭和44年(1969)11月3日
碑文の建立者 長崎市浦上切支丹大和郡山市流配者遺族会
石碑の形状 自然石 高さ約1.5m・幅約1m
刻まれた名 郡山の地で殉教した6名の名(洗礼名)
2026年 流配碑建立百周年
教会と流配碑
流配碑 教会建物 教会夜景 切り絵慰霊碑

碑文

昭和四十四年(1969)に建立された碑に刻まれた、遺族会の言葉です。

浦上四番崩れ流配記念碑

*この事件を称して浦上四番崩れという

幕府は慶長元年(一五九六年)以来三百年間切支丹に対し邪宗門信奉の故をもって 間断なき惨虐苛酷たる迫害を敢行して無数の鮮血を流した。

幕府倒壊後も維新政府は切支丹を一気に殲滅せんとして七代に亘って潜伏を続けた 長崎浦上村民三千四百十六名を悉く捕縛して、明治二年末、家族を分散、総流罪に処した。

大和郡山藩に流罪された戸主十名と婦女子七十六名は茶町雲幻禅寺に五年余の雨露風雪を凌ぎ、 連日執拗なる改心説諭、峻厳酷薄な責苦に毫も屈することなく九名の殉教死者を出しながらも 頑強に棄教を拒み、飢餓と寒気に耐え、病魔と斗い、厳しい労役に服して 明治六年、解放されて故郷浦上に帰った。

吾等、流配者遺族は切支丹総流配者百年祭に当リ、この碑を建立して 祖先の難渋を忍び尊崇の記念とする。

昭和四十四年十一月三日
長崎市浦上切支丹大和郡山市流配者遺族会
※ 碑文中の「九名の殉教死者」については、石碑に刻まれた名は六名です。 久保忠八著『大和郡山流配切支丹史』(流配百年祭記念)および 『大和郡山市史』を主な史料としています。

郡山の地に眠る殉教者

流配碑には、大和郡山の地で命を落とした六名の名が刻まれています。 漢字で表記された洗礼名(キリシタン名)と、姓名が刻まれています。

彌額爾 ミカエル(Michael)
依撤珀 イザベリナ(Isabelina)
伯多禄 ペトロ(Pietro)
多明加 ドメニカ(Domenica)
(他二名) 碑に刻まれた殉教者
碑文記載:九名の
殉教死者
(石碑刻名は六名)
良玄寺(旧雲幻寺)

▲ 良玄禅寺(旧雲幻禅寺)——流配者が収容された寺。境内に殉教者の墓がある。

殉教者たちが眠っていたのは、もとの収容先であった雲幻禅寺(現・良玄禅寺)の 墓地の一角でした。

碑の洗礼名は漢字で表記されています。 「依撤珀」は「イザベリナ(Isabelina)」、「伯多禄」は「ペトロ(Pietro)」を 意味する女性・男性の洗礼名です。史料研究家の久保忠八によれば、 「イザベリナ西」は松本ニシという女性の可能性が高いとされています。

過酷な環境の中で命を落としながらも棄教を拒んだ彼女・彼らの信仰は、 今もなお、毎年の慰霊ミサで祈りとともに思い起こされています。

ビリオン神父——碑を建てた人

ビリオン神父 Père Aimé Villion, M.E.P.

Père Aimé Villion, M.E.P.
(ビリオン神父)

大正十五年(1926)七月、大和郡山の雲幻禅寺境内に流配碑を建てたとされるのが、 パリ外国宣教会(M.E.P.)のビリオン神父(Père Aimé Villion)です。

ビリオン神父は流配キリシタンを励まし、各地を訪れて祈りを捧げ、 物心両面から支援を続けた人物として記録されています。 浦上キリシタンにとって「大きな恩人」と伝えられています。

彼の足跡は大和郡山にとどまらず、同じく流配先であった山口県萩市においても、 キリシタンの墓地整備に尽力したとされています。

流配から五十年以上が経ち、記憶が風化しかけていた時代に、 神父は殉教者たちの記憶を刻んだ石碑を建てることで、 後世への橋渡し役を果たしました。

その石碑は今、カトリック大和郡山教会の境内で毎年の慰霊ミサの中心となり、 百年後の今も変わらず祈りを受け続けています。

慰霊祭——祈りの百年

2019年 流配150周年式典 司教による慰霊祭ミサ 流配150周年

昭和三十九年(1964)頃から、奈良・郡山の信者たちが流配碑の前でミサを 捧げるようになりました。昭和四十四年(1969)に碑が教会境内へ移された後は、 毎年十一月の「死者の日」に慰霊ミサが行われています。

平成三十一年(2019)の流配百五十周年には、カトリック京都教区の主導のもと、 全国から信者が集まり大規模な記念式典が行われました。 韓国からも二十名以上の巡礼者が訪れ、国境を越えた祈りが捧げられました。

流配碑はいまや人権教育の場としても注目され、他都市の学校や市民団体からの 訪問も続いています。

毎年11月 死者の日 流配碑の前で慰霊ミサが捧げられます
カトリック大和郡山教会

参考図版

流配先一覧

▲ 全国への流配先一覧(全国二十余藩)

流配先地図

▲ 流配先分布図

アクセス

教会名 カトリック大和郡山教会
(カトリック京都教区)
住所 奈良県大和郡山市城南町1番33号
電話 0743-52-3268
鉄道 近鉄橿原線「近鉄郡山駅」より徒歩約7分
JR大和路線「郡山駅」より徒歩約12分
流配碑 教会境内に設置(常時参観可)
慰霊ミサ 毎年11月 死者の日(詳細は教会にお問い合わせください)
教会建物
流配碑正面
教会夜景